2013年 06月 08日
カンボジアの旅③
だんだん環境に順応しにくくなっているのかも知れません。
取りあえず先に進めますね。午前中の観光はアンコール・トムです。(アンコール・ワットとトムの違いは宗教観の違いで、ワットはヒンドゥー教、トムは大乗仏教の影響が色濃い)
その前にカンボジアの歴史=目立ったところで
802年→にジャヤヴァルマン2世がアンコール王朝をおこす
889年→ヤショヴァルマン1世がアンコールを造営
1113年→スールヤヴァルマン2世がアンコール・ワットの建設を開始
1145年→アンコール王朝がチャンバ支配
1177年→チャンバ軍がアンコールを攻撃、都城を占領
1181年→ジャヤヴァルマン7世がアンコール・トムの建設を開始
1394年→シャム軍が第2回目のアンコールを攻撃
1431年→タイのアユタヤの攻撃を受け、アンコール陥落。プノンペンに遷都
1860年
フランス人博物学者アンリ・ムオーの調査によって「発見」されたといわれてきた。けれども、ムオー自身、彼より先にアンコール遺跡を訪れたフランス人神父ブイユヴォーの記録に言及しているし、自分を「発見者」だとは思っていなかった。そして、アンコール・ワットは、地域の住民にとって宗教的な聖地でありつづけていた。つまり、ムオーの「発見」とは、コロンブスによるアメリカ大陸の「発見」と似たようなものだ。
では、なぜムオーは「発見者」に仕立てあげられたのだろうか? これは、どうやらフランスによるカンボジアの植民地支配と関係がありそうだ。フランス人がアンコールを「発見」し、フランス人が調査・研究し、フランス人が保存・修復する、だからフランスはカンボジアを支配しつづけるという理屈は、植民地支配を正当化する。
1922年にマルセイユ、1931年にパリで開催された植民地博覧会では、「インドシナ館」としてアンコール・ワットの巨大な模型が作られ、内部で仏領インドシナの産物が展示された。植民地博覧会は、アンコールの「発見」と、フランスによる植民地支配を宣伝する格好の場だった。
フランス本国で博覧会が開かれたのと同時期、フランス人によるアンコール観光が本格化した。植物に覆われたタ・プロム遺跡を訪れることで、観光客は「発見」を追体験し、植民地支配の正当性を確認することができる。遺跡とは、古代の建造物が現在まで、そのままの形で残っているというものではなさそうだ。遺跡を誰に、どう見せるか、タ・プロムから保存・修復の政治的意図を読み取ることができる。 笹川秀夫(日本学術振興会特別研究員)
それでも不思議なのは約700年にわたって栄華を極めた建築物は突然放棄され、クメールの民は消えてしまった事だそうです。
侵略や反乱はあったとしても、長い間放置されていたことは現在も謎のままの様です。
アンコールトムは一辺3Km、周囲12km、幅130mの外濠に囲まれた大いなる都市には、5つの巨大な城門がありました。(その後の調査で更に外側に道路、水路が碁盤の目状に広がり、35平方キロにも及んでいたことが判明)
とにかく広い。
まずは南大門・バイヨン寺院・バブーオン・ピミアナカス・象のテラス・ライ王のテラス・巨木の絡み付くタ・プロム寺院と廻りました。
ガジョマルの木は本来こんなに小さいのが年月とともに巨大化するようです。建物を突き抜けてすさまじい勢いで根を張っている様子は本当に人がいなかったと言う事を物語っていますね。
修復用の石が沢山積まれていましたがまだまだ修復には何十年もかかるでしょう。気の遠くなるような費用が発生するのでしょうね。
車から出ると熱気でメガネが曇ります。まるでサウナに入っている状態の中を歩くのですから、かなりの体力がいりますね。
高所恐怖症と言う事もあって高い第3回路には登りませんでした。
その分時間を短縮して休憩に回したい・・・・・。
おばさんはダウン寸前でした